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順応の脅威

昨日、ラジオから植物の生態のような話が合って、多分コケ類の話だと思うのですが、日陰でも順応することで生命を維持している、というような話を聞きました。それは至極当然のことで今までも聞いてきたことなのですが、昨日はビビッときまして、こうして書き込んでいます。「順応」この素晴らしき言葉!今までのイメージは「相手に合わせる」「適当にする」という“ええかげん”な要素もあったのですが、苔の話から、目の前の今ある生物体は、すべて「順応」から生き残ってきたものであることにとらえなおすことができ、「順応」って生きる生命力であると感じたわけです。そして、そこには、ええ加減という生き方ではなくて、生命の意志を感じることができたわけです。何をそんなことで大げさな・・・と思われそうですが、じめじめしたところで生きている生物体、それはそこでも自分が生き延びようとして形を変え細胞を変えながらそこで生きる道を選びそして今なお息づいている。何億という道のりなのかもしれませんが、すごいことです。庭に咲くきれいな花も、改良という人間の手が入ったかもしれませんが、今の形を歴史の中で作り上げ存在している、生命の悠久を感じてしまいました。その努力は、苔も、ひまわりも、桜も優劣はなく、生物体としての同じ存在であると、苔の存在を見直してしまいました。生物体の延長である人間もそうなのだろうと思います。順応できない人間の息苦しさは、社会性ではなく生物体レベルでの息苦しさではないのか・・・。本人の気持ちの持ち方でどうなるものでもないのではないか・・・。ちょっとそんなことも思いました。そして、生き延びるためには、「順応できる自分」を作り出していかなくてはならない。人間の生き方としては、周りに順応することは道徳的なことで、一匹狼なんかは「へっ、しゃらくせー、世の中になんか合わせるもんか、俺は俺の道を行く」というのがかっこいいことに感じていましたが、自分の存在を価値あるものにするための順応があることを感じました。何に順応して何に自己主張するのか、その兼ね合いのさじ加減が生きるためには必要なことなのだと感じた出来事でした。