子どもと親の関係・・・

某タレントの息子が薬物で逮捕され、いろんなコメントが錯綜している。さわりだけ見ただけだが、29歳にもなったら親とは別の人格である、親が謝る必要ない、という意見やら親の育て方が悪い、という意見やらいろいろだ。29歳の息子は、どういう立場なのだろう。うちにも近い息子がいるが、就職もして親元から離れて暮らしている。社会的には一大人なのだろうが、親としては“こども”という感覚は変わらない。いつまでも子どもなのである。もし、何か人様に迷惑かけたのなら謝りに行かなくては・・・と思ってしまう。今回父親が涙ながらにコメントを出したが、私は当然かな、と感じる。それが、子どもを甘やかせることなのだろうか。子どもも謝り親も親として何らかの謝罪をするのが普通ではないかと感じている。ただ、うちの息子は親に対しこの上なく憎しみを感じているので、余計心配してしまうのかもしれない。実家へは帰ってきてくれるが、穏やかな表情を見せてくれない。とがった目で睨まれることのほうが多い。当然こちらの会話も少なくなる。育て方が悪かったと言われればその通りだ。子どもたちにはいろいろな重荷を背負わせてきた。今更謝っても取り返しつかないが、何とかにこやかにしゃべれる関係になりたいと思っているが、息子は余計なお世話と思っているのかもしれない。親はいつまでも子どものことが心配だ。うまく会社でやっていってるのか、話せる友達はいるのか、楽しく暮らしているのか・・・。心配は尽きない。そんな私を娘が見て、「お母さんも子離れしんと」とアドバイスをもらった。姉の娘はそれなりに弟の息子のことを気にかけてくれている。同じ重荷を背負わされた兄弟として息子のよき理解者だ。子離れって何だろう。親は子どものこと、特に母親は子どものことを切り離して生きてはいけない。子どものために生きている生物だ。それがただの自己満足であると感じつつも、子どものことはいつも気にかけている。しかし、30歳近い子どもにあれこれ言うわけにもいかない。私の親はどうだっただろう・・・。んん~、何も言わなかったな・・・。それでよかった、私は。そして、私が得た結論は、「黙って見守る」。実家に帰ってきたら、何かと聞き出そうと話を切り出すがよけい疎まれてしまう。もう、自分の足で歩いているのだろう。その結果が親は憎い、というゆるぎない気持ち。親は子どもがかわいい。親のエゴで押さえつけてきた部分はあるが、子どものことは無条件にかわいい。そんなことは親にとっては当たり前だが、子どもは親の行動、言動で親のことを推し量る。私は、形ばかりを要求してしまった。その責任も感じてきたが、親としてできることは、責任を取り繕うことではなくて、今のありのままの子どもを静かに見守ることなのかなあと思った。そう、30近い子どもと子離れするのは、見守り・・・。何か事が起きても、本人を尊重して本人の気持ちを、本人のあがきを静かに受け入れることなのではないのだろうか。実際何かが起きればそんな冷静にはいられないとは思うが、本人が主人公。もはや親はなすすべのない存在なのである。

それを思うと、親の謝罪はどういう形になるのか・・・、考えさせられる。

夫って😢

またまた、夫にいら立った。原因はもらった廃材がじゃまで車が入らないので、早く帰宅した日にぼつぼつと一本ずつ隅にどけてスペースを開けた。家に入って夫が「何してたん?」と聞くので、こうこうしかじかと話すと、「( `ー´)ノ何でそんなことするんだ(怒)。⦅自分が事故で動けないからできないのに当てつけか!!⦆みたいな感じで怒った。本人はおまえにそこまでしてほしくない、的なこというけど、そしたら、「すまないなあ」という感情があってもいいと思うのだけれど、怒りがさく裂した言い方だった。自分のプライドで相変わらず生きてる人間だなあと思う。事故って一命とりとめたからと言って謙虚さは備わるわけではない。誰かに迷惑かけたわけでもないのに自分の都合で相手を怒鳴り散らす輩にはほとほとごめんこうむりたい。今度11月に親戚の結婚式があるが、とっても行きたくないのだけれど行かざるをえなく、そこで夫と2時間ほど一緒に食事すると考えただけでほんとに嫌で嫌で胃のあたりがぐちょぐちょになったので断りの電話を入れようと、今朝はとりあえず仕事に向かった。車の中でも「絶対断ろう」とそればかり考えていた。でも、職場についてAさんとたわいもない会話をした時、すっとドロドロ感が下りて、「大人げないことしてたらあかんな(´Д`)」と思えてきた。Aさんは、意外とずばずば系で、でも、悪気のなさがあって気軽に会話できる若い方である。この日のキーパーソンはAさんだ。特に何か励ましてもらったわけでなく、相談したわけでないのに、日常の会話の効力に我ながら驚いた。あんなに、「絶対行ってやるものか」と思っていたのに、Aさんと廊下で会話した一コマがなぜか私を大人にしてくれた。なぜなのか、わからない。でも、一歩出た社会ってそんなものなんだろうなと感じた。十人十色の方がいて、「こんちくしょう」と思う人もいれば、「すごいなあ」と思う人もいて、「しまった、変なこと言ってしまった(涙)」という人もいれば、「この人の冗談、なんか楽しい・・」という人もいる。いろんなコミュニケーションの中で一喜一憂している。いいコミュニケーション、悪いコミュニケーションなんて巷で本がありそうな気もするが、いいも悪いも含めてコミュニケーションであって、落ち込んだり救われたりしながら人間社会をさまよっている。私も基本人間関係がうまく取れずに、先の結婚式も、あんな大人数でじっと食べてみてるだけなんて、誰とどう会話していいやらすごくストレスになるのでほんと行きたくない。何か仕事があればそれに集中できるが、仕事もなくただ、みんなとしゃべるだなんて獄門に近い。そんな私でもそうやって救われることがあるのだから、人間社会捨てたものではないと思ってしまう。娘も実社会でそういう経験を積んでくれたらなあと思う。時々ある心安らぐことを支えに、60%の平常業務と45%のストレス業務を何とかこなしている毎日である。

夫とも口を利くことになるかもしれないが、それで夫は妻の機嫌も直り無罪放免と思うだろう。しかし、そこは違う。夫への憎しみや人間としての尊敬できなさは払しょくされていない。でも、そんなことしてても仕方ないという日常重視にしただけだ。怒鳴って謝りもしない輩に機嫌を直すわけがない。

ウチも熟年離婚がそこまで・・・・・(驚!!!」)

制服

出勤時に小学生の集団登校の列に出会う。夏休み明け手久しぶりに見たとき、女の子はみんな紺のプリーツスカート、男は紺のズボン。上は好きなTシャツを着ている。なんか、昭和の時代にスリップした気がした。私の小学校の頃は茶色でブレザーまであった。もちろん中学校は学生服にセーラー服。この、制服制度がいつかなくならないかとひそかに思っている。大人になって毎日服を選択するようになって、制服はどれだけ汚いのだろうと、よく、あんなもの毎日着ていたなと思う。もともとが生地がいいのか高価でざぶざぶと洗濯するものではない(はず)。だから、長期休暇にクリーニングに出すくらい。その間ずっと、毎日着ているのだ。色が濃いから目立たないけれど、クリーニングした人は真っ黒な水を見ているのではなかろうか。おかしいよ!そして、女子のわけわからんプリーツスカート。椅子に座る時それとなくお尻のプリーツを撫でて整えて座る。でも、もちろん動きの激しい学校生活でくちゃくちゃになる。私は「寝押し」と言って、布団の下にプリーツをそろえて新聞紙で挟んでその上で寝たものだ。どろどろと足元にまとわりつく不快感。それを長さで自己主張しようとするその時代の女子は立派なものだと思う。たぶん校長室で説教されるのだろうが・・・。不便極まりないデザインである。大人になってパンツで過ごす快適さ。動きやすい。ジェンダーの問題が出てきて、ズボン(orパンツ)の制服も認めるようになったと以前なんかで見たがそれも申告制だったような・・。女子のスーツのだいぶんパンツを認められるようになったので、制服ももっとパンツを許容したらいいのにと思う。おかしいよ!!服で統一性を求める考えもどうかと思う。合唱コンクール、その他もろもろ何かと一緒のものを着ることで統一性を出すことの効果に疑問を抱いている。以前、親子30人ほどがステージで踊りと歌の発表をされるのを見たが、1グループはそれなりに服をそろえていて、もう1グループは自由な服装だった。「あっ、ここ、服そろえなかったんだ・・」という思いで見たが、その発表が生き生きとしてとてもいいもので、服がバラバラなんてこれっぽっちも感じさせないまとまり感で、それを見た時から服装をそろえることの効果に疑問を持っている。実は、いいものは着るもんを一緒にしなくても人を感動させることができるのではないだろうか。大きな式典や立派なコンサートなど格が備わりますから服装にも気を配ることはとても大切な文化だと思いますが、小学校がそこまで求めなくてもよいのではないかと思います。外国は自由ですよね。教育の内容も教え込む、縛って忠実を求めることが多いので、服装を自由にしたら教師がそれを指導できないところはあるかもしれません。和の文化というより、封建社会の名残のような気がしてなりません。統一させていい子に見せるより、その子の個性を表現させる生活、学習に教育はなってほしいなあと思ってますが、そうなったら頭の固い先生方は困るでしょうね。

まっ、学校に行かなくていいよ、って言わんならん学校ってどうなん???って思いますね(´Д`)。

これでよかったのか

日曜日も仕事があったA子は、夕方に相手の家に行くことにした。事故から2日たったが、相手の様子を確認するのとお詫びと向かわなければならない場所だった。手土産は行く途中の店で買う予定をしていたが、立体駐車場が面倒臭くなって道沿いの店によって購入。ここら辺では有名な店舗だ。それを台にしてお見舞いも添える。夫にいくらいれよう、と聞くと片手の答えが返ってきたのでそうした。足らないのか十分なのかわからない。事故の大きさから言うと足りないくらいだと思うが幸いにもほとんど怪我がない様子なので多いのかもしれない。取り合えず、気を利かせてきちんと風呂敷に包んで、「ほんとうに改めておわびします」と車の中で練習しながら向かった。住所を入れるとナビが案内してくれる。ここら辺は通ったこともあるので「この家か・・・」、すぐにわかった。日曜日の5時。留守だった。家の夕食の支度もあるのでいったん帰り6時ごろまた向かう。それでも留守で近くに車を止めて待つことにした。どういう反応されるだろう。あれだけに事故を起こしたので「あんたもたいへんやったな」と言われるか。もし、打ち身とかあって仕事に支障があるようならちょっとむっとされるだろうか。憂鬱な気分で車にいるとトラックが入ってきた。ご主人のような方が下りてきて荷物を一つ一つ片付ける。10分~15分ほどかけておられただろうか。そのあと自宅に入られた。一呼吸おいて「よし、行こう」とA子は車を降りて向かった。ピンポ~ン。返事があって先ほどのご主人が出てきた。A子は「この度はほんとにすみません」と第一声を上げた。ご主人はちょっと解せない様子。きっと自宅ではA子の家のように事故の話で大騒ぎになっているだろうと思っていたので、「ああ」という反応を予測していたが全く「誰かな??」という反応にちょっと戸惑う。「〇〇の××です」とA子は名乗ったがご主人はまだ?という表情。「あの、事故の・・・」と言葉をつなぐとやっとご主人は「ああ、」という表情に変わりそしてさわやかな笑顔で応答してくれた。A子はその様子にホッとして相手の体の様子を確認した。相手はその方の息子さんだった。「相手のことは何もいいよおらんかった」「ちょっと肩が痛いって湿布はっとたかな」 気さくにお話しされた。被害者であるから、相手はどこのだれか確認したいようなものだけれど、そんなこと気にも留めずに「あんたの方も大きな怪我みたいやな」とこちらの心配をしてくれた。「いやいや、こっちは自分でしたことで・・・」とA子は恐縮し「すみません、これ」と用意してきたものを渡すと、相手はそんなんええと受けてられない。「こうやってきてくれただけで十分」と話される。A子は自分ならとりあえずそれを受け取るのは当然と思っていたので、それを断られる相手に戸惑って、また、さらにそのご主人があまりに諭すような優しさを持っておられて、お金包んでそれで解決を図ろうとしている自分のように思えて恥ずかしさがこみあげてきた。恥ずかしい、と思った瞬間、A子は手を下げていた。「そうですか・・」「ほんとにすみません」。A子はそう言って持ってきたものを下げ帰ることにした。金額もその気持ちに左右した。もう少し少なかったら言うほどの額と違うし押し付けてでも受け取ってもらったかもしれない。金額というのは難しい。渡せばいいというものではない。かえって失礼になることもある。ご主人の人格に触れ、このお金、失礼になるんと違うかな、と感じてしまいひいてしまった。しかし、家に帰ってからほんとによかったのか後悔した。あれだけのことをして「すみません」と頭下げるだけでいいのか。あかんやろ。A子は自問自答して無理やりでも置いて帰るべきだったかと早くに下がってしまったことを後悔した。どうすればよかったか。相手は玄関から出て戸を閉めておられたので下段に置くわけにもいかない。相手が受け取らないと地べたに置くしかない・・。紙袋に入れておいたらよかったと後悔した。これでよかったのだろうか。

ただただ、ご主人はとてもいい方だった。素敵な方に出会えたという感動を感じた出会いだった。

ま・さ・か

人生には上り坂、下り坂がありますが、もう一つの坂があります。「まさか」の坂です・・・、なんてお寺の説教で聞いたことがありますが、そのまさかがウチにも降りかかりました。相方が交通事故!トラックと交差点で衝突!!車大破!!!ドライブレコーダーまでつけて安全には気を付けていたはずですが、そのドライブレコーダーは一旦停止をせず交差点に突っ込んだ相方の事実を証明しました。左から走ってくる車が全く見えなかったそうです。あの、大きなトラックが見えなかったって、人間は脳で見ているんだということを再確認しました。そういうことってあるんですね。これも年齢のなせるわざかもしれません。年を取ればより慎重に慎重に事に臨まなければ・・・。エアバックが破裂して幸い命は助かったものの骨折があり相方は自宅療養中です。不幸中の幸い。大きな動作は支えが必要ですが、身の回りのことは自分で動けるので、やれやれです。お互いに事故だけは起こさんとこな、地域の道路は子どもが多いからスピード出したらあかんで、と口酸っぱくして言っていたのにまさかほぼ100%の過失で事故起こすなんて・・・。「何見てたんや!」という言葉がやっぱり出ました。現場に行ったとき相方は大破した車から出て3mほど離れた道路わきに胡坐でへたりこんで顔からガラスの破片が刺さっていく筋かの血が流れていて呆然とした表情で座り込んでいました。とにかく意識はあり車にある「財布とってきてくれ」とか散乱したものが気になっていました。ほんとに情けない姿で体の心配もしましたが、でも、一言「何見てたんや!」と絞り切ったぞうきんをさらに絞り出す感じでそんな気持ちが沸き上がり言えてしまいました。相手はトラック。大きく道を外れて横の畑に突っ込み、後で知りましたが信号機にも当たっていたのです。普通に立って話をされたので一安心ですが、運転席は大きく前のめりに破損していて大変な衝撃でした。トラックを見たとき「えっ、これ修理するのいくらかかるんやろ・・・」と頭によぎりました。保険にしっかり入っていたのでそこらへんも何とかなりそうで、大きな事故のわりにお互い体の方は「これで済んでよかった」状態。相方はしばらく痛みもあり自重状態ですが自業自得です。今こうやって愚痴も言いながら語れるのが不幸中の幸い。ほんとにこれで済んでよかった。ただ、ガラスの破片の回収や信号機の設置しなおしなど、場の後始末を地域の方が一生懸命やっていただきました。ほんとに申し訳ないです。ほんとにいろんな人に迷惑がかかりました。「これで済んでよかったなあ」と相方をいたわりつつも、そしてその後に沸き上がる言葉が「何でちゃんと止まって見なかったんや(´Д`)・・」。

0,00秒の世界で事故は起こります。

今日は23日

正式な?地蔵盆の日です。実家の方は村に数個の地蔵さんがあってそこに櫓を立てて、3畳ほどの板の間ができてそこで一日過ごしたものです。かわいい前掛けのお地蔵さん。そしてたくさんの供え物。地蔵盆が終わるとお菓子をそこに携わる家の件数分分けて、袋いっぱいのお菓子が最後の楽しみでした。夜は行燈をもって友達と村のお地蔵さんを回ります。浴衣着せてもらって友達と夜の道を歩くのはとても楽しみでした。今でも実家の地蔵盆はそんな風なのかなあ。少子化でなかなか地蔵さんの守も出来なくなっているのかも・・・。こちら(嫁ぎ先)の地蔵さんは、村に1つで、各家に地蔵さんがあります。大きな地蔵さんは地蔵講という年配の方の組織が飾り付けをし、日中は小学生とPTAの方が準備をします。夜にお参りがあり気のある人は参ってお賽銭を入れる、そして子どもたちが考えたくじ引きがある、というお楽しみです。各家庭のお地蔵さんも、とれた野菜やお菓子を供えて万国旗で回りを飾ってにぎやかにします。小学生に準備をさせるPTAはほんとに大変で疲れます。子どもが大きくなるとお地蔵さんも参らなくなりました。家のお地蔵さんはそれなりに飾ってお菓子を供えましたが、地域は土日になっても何か地蔵盆は23日、が染みついて今日が終わったら飾りを外し供え物を下げおしまいにしたいと思います。子どものころ浴衣来て行燈持って歩いた夜道が記憶の中に鮮明に残っています。楽しかった?いや、とてもとてもむかしの、自分ではないような一場面。郷愁?いや懐かしいわけではない・・・。そんな自分がいたんだ的なあまり感情を伴わないけれどなんか思いをはせる子ども時代。今の子どもにもいい地蔵盆の記憶が残りますように。

地蔵盆

地蔵盆の時期です。ここ数年、時代の波で土日に済まされることが多く、今年は、19日・20日でした。平日に仕事が休みにくくなってせちがらい世の中です。20年前は、祭りなど地域の行事で休むことも感覚として許されてました。逆に、仕事休まんならんほど地域の縛りが強いのだなあと気の毒に思ったほどです。今は、仕事至上主義。仕事は休めないものになってきました。そして、ブラックと言われる、人を人とも思わない働きを要求され、働いて収入を得て自分の生活を豊かにするはずが、働いてボロボロになりましてや死んでしまうなんて・・・。世の中間違っています。「ああ、仕事終わった。あそこで服見て帰ろうか。」とか、「さあ、仕事終わった。家に帰って一杯飲んであのDVD見ようか。」とか思えない人は異常ですよ。それに気づいてください。私は30年働いていますが、今の働き方はおかしい。特に、中堅のバリバリ会社を支えている人が無理することはずっとありますが、入りたての若者が過酷な労働強いられるのは、人間性のかけらもないじゃないですか。どうしてこんな風潮になったのでしょう。私は時の政治が悪く思えて仕方ない。じわりじわりと法律を変えながら、自由度を増しつつ勝手にできるように仕組んでいるのではないかと・・。だって、いろんな現実が明らかになっても本人が提訴でもしない限り改善されて行かないじゃないですか。法律は働く人を守ってくれていない。そして、働く人はあまりに法律を知らなさすぎる。「おかしい」と思う感覚を育ててもらっていない。学ぶ機会がないのです。学校で、しっかり教えてほしい。面接で住所聞かれても答える必要なないなど、就職差別に対しては聞いたことがありますが、働く人の権利は聞いたことがない。ストライキって何のことか社会に出るまで知らなかったですから。ただ、教科書を流すための指導ではなくて、これから社会の一員として生きるために「働いたら、こういうことが起こるんだよ・・。」「上司にこういうことを言われたら、どうしたらいい?」とか体験的な学習をしてほしいですね。これも、学校の大きな役割ですよ。もう一つ思うのは、被爆国日本、として戦争の歴史を学ぶこと。先日テレビで、終戦記念日を知らないパーセントが増えている、と伝えてました。実は私も学生の間は習ったけど試験用としてだけで、特にそこらへんはテストにも出ないので知りませんでした。それが、社会人になって平和な世の中であってほしいなあと願い、8月の終戦の番組に触れることで、ようやく、戦争が現実のものとしてとらえられ「終戦記念日」の重みを感じてきた。今になって、戦争をした日本をしっかり学校で教えるべきという気持ちになっています。広島への修学旅行もひと昔は偏向教育のように言われたけれど、被爆地を訪問できるなんて日本にしかできないこと。そして、家庭ではよほど意識が高くないと訪問できないという現実もあり、被爆の現実を知ることは日本の生徒は必須科目にしてほしいですね。

しまった・・。地蔵盆の思い出を語ろうと思ってたのに、学校教育への要望?になってしまった。時間切れ(+o+)。

ざわざわしてる・・。

何か身辺が危うい。このネット社会、どんな情報がどこで漏れるのか、個人情報があってないようなものだ。私はいまだになぜ画面をさっとなぜるだけで情報が出てくるのかちんぷんかんぷん。ラジオが聞けるとかTVが見られるとかはまだ納得できるけれど、「〇〇どこですか~」なんてしゃべるだけでちゃんと目的のものを出してくるなんて一体どうなってるんだか。でも、前に株で一桁入力し間違えたとかありましたが、ちょっとしたミスが大ごとになりかねないですよね。職場もパソコンが貸与されたとこの前言いましたが、ずっと蓄積されたデータが何かのトラブルで突然消えたらどうするのでしょう。何かとっても足元の危ない世の中になってきました。芸能ニュースでも写真がSNSから簡単に紹介されたりします。二人でいちゃついているところを何気に撮ったら全国に知れ渡る状態になってしまう・・・。怖~い。そんな恐怖で、ログインを求められるとすべてキャンセルしてしまうので、パソコンの扱いは一向に進みません。アマゾンで物も買えないし、番組にメール送りたいけどそれも出来ないというネット難民です。機能を知っている人は安全のことも知っているのでしょうけど、これから先、ネットができない、では済まされなくなるだろうし、何とかもう少しSNSやネットに慣れていきたいものですけど・・・。でも、いつ、どこで情報が洩れるかは覚悟してアンテナピッと張ってなければいけませんね。こわいよ~~~~~。

ああ、夏休み!!

blogが3日間続いています。何しろ夏休みですから・・・。これが、日常だとなかなか時間が作れなくてこんなにゆっくり書いている暇はないでしょう。休みっていいなあ。そして、今日は地域の夏祭り。私はある役になってまして準備に行かなくてはなりません。朝の8時から夜のたぶん10時まで・・。長~い1日の始まりです。中抜けはできますのでみっちりというわけではありませんが、1日拘束されます。櫓組んで舞台を作り、椅子やテーブルを並べ、模擬店の材料を準備し下ごしらえし・・・と、まあ、ほんとに役員さんはご苦労さんです。こんな地域の祭り・・・どう考えたらいいんでしょうね。出てくる人は顔が決まってきて、もう、村民みんなが集うっていう感じでもなくなってきていますが、これを楽しみにしている人もいて、外に出た方が子ども連れて帰ってきて参加する姿も見られ、まあ、貴重な村の無形文化財なのでしょうか。私は他人とわいわいすることが苦手なので、役でもなかったら家でゆっくり過ごすタイプです。実家の夏祭りにも大昔行ったことがありますが、「〇〇ちゃんか」と見たことあるおばさんから声かけられ「はあ」と会釈してただけで、楽しかったなあという思いではないですね。里帰りして来てくださる方、楽しかったって思ってるんでしょうかね。小さい子どものための儀式みたいなものですかね。子どもってのは、祭りの魅力は感じているでしょう。私も、子どものころに祭りで神社行くことや地蔵盆で村を歩くことはわくわくしたことを覚えています。りんごあめやわたあめが楽しみだったなあ。大人から言わすとぼったくりのたまものですが、子どもにはすごい魅力なんですねえ。大人が子どものそんな期待をわかってあげて買ってあげるか、「高いからだめ」なんて素通りするか、子どもの心の成長に大きく影響する気がします。ちなみに私は(特に夫は)「そんなん無駄や」とあまり買わなかったと思います。すごく反省します。子どもって夢を持って生きてるんですね。ありえないことを期待したり自分を別の世界に置いてみたり。こんな小さな村の夏祭りも、来てくれた子どもに、「ゆかた着せてもらって、おいしいもの食べたなあ」なんてあったかくなる思いで作りの一役を担えればいいのかなあ。ささやかな夏祭りですが、続けていくべきなのでしょうか・・・。

恒例の抽選会がありまして、今年の景品は、1等、1万円程度の椅子にのせて使うマッサージ器です。例年5千円程度ですが、今年は奮発です。景品はその年の役員さんの采配で決まります。いつぞや私は一輪車を当てたことがあります。今年は1等、誰が持って帰るのでしょうか。私は2番の扇風機がほしいですが・・・。お楽しみに。

大惨敗・・・(≧▽≦)

フルート発表会、ボロボロでした。緊張したかって言われると、別にドキドキもしてなかったしすごく落ち着いてはいたと思います。とにかく低音が全く出ずにそれを修正するにもできなくてそのまま突っ走って終わってしまいました。一曲目が終わってたらーっと冷や汗が出ましたが、2曲目も何となくボロボロのまま済んでしまいました。まあ、フィギアスケートでいったら、全部のジャンプを失敗してしりもちつきました・・・っという感じ。何もいいところがない(;´Д`)。でも、終わった後はそんなに落ち込まずに済みました。仕方ない、という気持ちが強かったです。なぜかを私なりに分析しますと、この4日間、2曲を各5回ずつ通しで練習する、指を酷使しないため草むしりはしない、ということで頑張りました。その練習の中で1曲はノーミスで吹けることもあり自分なりには完成度が高まったという納得が得られていたからかなあと思います。今自分の心と会話するなら、「がんばったよ・・・(^.^)。失敗は仕方ない。ただ、教えていただいた先生には申し訳ないなあ・・。まっ、いいか。」という感じでしょうか。そして、なぜうまく吹けなかったのかという要因は、場の変化、でしょう。午前中と午後でも何となく音のなり方は違ってくるし、いつも一人で練習しているのと、伴奏が近くで鳴っていて自分の音が聞き取りにくいのとでは、なぜか全然違うのですね。自分の音に集中できないと修正法がわからなくなってしまうという点です。でも、オーケストラなんかは音がバンバンなっている中で吹かなくてはならないので、そこらへんの課題については先生にも聞いてみたいと思います。先生がとても温厚な先生なので助かってます。とりあえず、この夏の大きなイベントがひとつ終わりました。

ぼちぼち 書こか・・・・・

職場に一人ずつパソコンが貸与され、やっと自分のパソコンでblogが再開できるようになりました。今まで個人のパソコンで業務してたのです。恐ろし~。公務員ですが国の対策の遅さにはまいります。さて、これからどんなブログを書こうかなあ、と考えていますが、何しろそんな文才があるわけでなく愚痴の掃き出し(?)になりそう。でも、そろそろ現役を離れて隠居の世代になり何かと大変だったことも懐かしく感じ、そんなゆるりと生きてることを楽しく残せればいいなあと思います。

今日は、フルートの発表会。いつも先生の自宅でされていたのですが、今回はあるホールを借りての発表会となりドキドキです。春からずっと練習してきましたが、7,80点まではいくもののなかなかノーミスの100点とはいきません。完成させるって難しいですね。今世界陸上もやっていますが、発表の舞台で100パーセント出そうと思ったら血のにじむ努力をされてるんだろうなあとほんと思います。素人のフルートですが、いいところまで行くと今まで間違ったことのないところを間違えるようになったり、自然に動いていた指が急に動かなくなったりいろんな??が出てきます。ちょっと息継ぎしっかりしようと気持ちが動くともう指が混乱します。息継ぎの位置を変えるだけで何を吹いているのかわからなくなったり・・。気持ちの動きと脳みそが密につながっていることを実感します。そしてそのつながりはとても繊細です。私たちの日々の心の動きは脳みそはしっかり感知しているのだなあと思います。そう、頑張りすぎたらだめ。脳みそは静かに静かにストレス貯めますよ~。とにかく、ミスが少しでも少なくなるよう集中して吹きたいと思います。梅沢冨美男が「自分以上のものを出そうとするから失敗するんだよ」と前のブログで書いていましたが、それも自分に言い聞かせてリラックスしてできればいいなあと思います。

クリスマスリース

うちのような田舎の玄関にもクリスマスリースを飾っています。最初はお花屋さんで買った結構高くついた赤いリース。リース自体はすごく落ち着いた色で高級感もあっていいのですが、うちの田舎の家は茶系統なのでいまいち目立たないなあと思っていました。それが、3,4年でぽろぽろ松ぼっくりが落ちてくるという結果になり、買い替えようか・・・・・と思案中の今年のクリスマスでした。とりあえず、それを飾ってはいたのですが、昨日ニトリに出かけたところ、姉ちゃんが安いリースの飾りつけ備品のセットを見つけました。木の実の殻と松ぼっくりがたくさん入っていて、あとちらちらと葉っぱや何やらが入っている品物。「お母さん、リース作ったげよ」というのです。作品つくりは趣味を超えて営業になりそうな腕の持ち主ですので期待はしていましたが、なんと、一晩で素敵なリースを作ってくれました。さすが姉ちゃん!!!!!。いい、クリスマスが来ますように・・・・・・・・・・・・・・・・・

久しぶりです。

パソコンを仕事に使うようになってご無沙汰していたブログ。お久しぶりです。この間、スマホがアイフォンに変わり、そっちの操作に没頭?していて、ツイッターでつぶやき、ティーバーでドラマ見たり楽しんでいまして・・・・。でも、やっぱりブログはブログの良さがあります。ほとんど愚痴書きだけどね・・・。

職場も担当が3人いますが、人間関係って難しいね。いい人ばかりなので大枠仲良くやっていますが、ここっというときにお互いのプライドのぶつかり合いを感じます。「人間関係ってプライドのぶつかり合い」 そんな悟りを新たに発見しました。誰だってプライドあるからぶつかって当然。それを隠しながら大人の対応していくことが求められるけど、私は半世紀も生きてきたので“ワオ!ぶつかってる!!”という雰囲気を感じて楽しんでいます。でも、あんまり心地いいものではありません。そんな時は『♪友だちになるために人は出会うんだよ』と心の中で唱えます。

最近サワコの朝をティーバーで見ています。先週の梅沢富雄さん、舞台でもテレビでもあがったりしないとのこと。梅沢さん曰く、「自分以上のものを見せようとするからあがるんだ、緊張するんだ。おれは(うる覚えですが)これだけしかできないと思ってやるから緊張しない。」まあ、そんな開き直りはなかなかできませんが、ちょっと心に留めておくと楽かなあと感じました。まだ、外は真っ暗。もうすぐ冬至。私のありのままって何だろう。お世話好きなとこ?毒舌はくとこ?口先人間なとこ?やさしいの?ひねくれてるの?んんんん・・・・・・。ちょっと考え込んでしまいます。どれもこれも自分の一部として変わらないし変われない。やりたいこととできることを一つずつ見つけて死ぬまで生きるだけ。

今やっと、お墓参りで親に手を合わせ「ありがとう」と思えるようになりました。罵詈雑言親には言ってきたけど、ほんとにありがとうって・・・。その時の心の穏やかさは、何とも言えません。

自分をしばらない

自分をしばらないって、どういうこと?

その言葉聞いた時、その通り、って思ったけど、それ難しいよなあって思った。何に縛られてるのか、何故縛られてるのか……。その縛りを無くすことは本当に可能なのか?もし、各々の縛りが無くなったらどうなるのか?

でも、世の中問題なく生きるために縛りは必要だと、うさんくさい言い方はしたくない。自分の縛りをなくしてから、それから世の中のこと考えればいい。

何のために生きるのか、青空に問うてみた……なんてコメント聞いたことありますが、そこを自分で確信持たなきゃ、縛りはマイナスでしかないと思う。

自分が自分のために生きる決意をするからこそーそれは、えらいことしたいとかじゃなく、生きることに真摯になることだと思う。ー縛られることを受け入れられるのかなと思う。

そのために縛らない。思ったこと、やって見る中で、何かに神様が微笑んでくれるかな💕

久しぶりです

パソコンが、職場で必要になって、家で使えなくて更新できませんでした。色々とありましたが、今ブームはのど自慢です。土曜日に予選があります。ボランティアのメンバーで出る予定です。練習に集まっても半分はおしゃべり。好きなこと言ってますが思いやりの心がいっぱいあるダベリングです。こんな機会を得られたこと、感謝します٩(^‿^)۶。

息子が突然帰ってきました。親に殺意を抱いて………………………。 地域の行事があったせいでほとんどしゃべりませんでしたが、殺したいと思われてると知って、何をかいわんや…です。

つらい休みでした。

でも姉ちゃんがしゃべってくれました。

さすが、兄妹ですね。